【あらすじ】
20世紀初頭のローマで、マリア・モンテッソーリは、ある「成功者」と出会う.。
フランスの有名なクルチザンヌ(高級娼婦)であるリリ・ダレンジだ。
リリは娘の学習障がいが明るみに出そうになったとき、自分の名声を守るためにパリから逃亡してきたのだ。
マリアはこの時期すでに画期的な新しい教育法の基礎を築いていた。
リリはマリアを通して、娘はただの障がいのある女の子ではなく、強い意志と才能を持っ
た人として、ありのままの娘を知るようになる。マリアに共鳴したリリは、男
性中心社会の中でもがくマリアが目指す理想の実現に手を貸す
(プレスリリースより抜粋)
【マリア・モンテッソーリのもう一つの顔】
モンテッソーリ教育という言葉を、教育熱心な保護者なら一度は聞いたことがあるだろう。
しかし、モンテッソーリ教育を一言で表すのは難しい。
1つ挙げるとすれば「五感を大切にする」ことであろうか。
これによって、記憶、創造、思考といった知性を育む。
映画の冒頭でもそれが発揮されているシーンがある。
マリアの務める教育研究所の生徒たちを職員が一人一人入浴させているのだ。
そこへやってきた視察団体が不審に思い、苦言を呈するとマリアは言う。
「全身の感覚と感情には深い関係があり、皮膚感覚と筋組織を鍛えるんです」
これはマリアが医師だから言えることだ。
そう、マリア・モンテッソーリは今でこそ教育者として認知されているが、医師というもう一つの顔を持った女性なのである。しかもイタリア初の女性医師だ。
さらに彼女は視察団体に言うのだ。
「これらは全て教育を受ける準備です。知的障がい者でも教育は受けられる。精神病院に入れておくのは非人道的です」と。
困惑するかのように互いの顔を見合う団体に最後、この作品の強いテーマが隠されていた。
「女の私だって医者になれた。この子たちもやれるはず!」

現代の皆さんなら、この言葉に違和感を覚えるだろう。
「女の私だって…」ここには言外に「男性にとっても医者になるのは難しいのに」という思想がある。
男性だから優秀で女性はそうではないから医者にはなれない、そのように思われる時代だった。
これは1900年のローマを舞台にした映画。
日本でいうとまさに明治時代。この頃の日本とフランスはそっくりだと驚いた。
【原題は『新しい女性』】
マリアは「結婚は服従と束縛」と言い、息子の父親であるパートナーとの結婚を拒む。
マリアには婚外子がいたのだ。
その息子マリオを田舎町の乳母に預けて、たまに会いに行くという日々を送っていた。
私は最初、意味が分からなかった。
「結婚して共働きで、同居している両親に面倒をみてもらえばいいのに」と現代の感覚でいた。現代の日本ではむしろそれが普通である。
しかし、彼女が生まれた1900年前後は違った。
監督は言っている。
「(子どもの権利のために戦うという大志を果たすには→筆者要約)ただ聡明で才能に恵まれているだけでは十分ではありません。鉄の意志、揺るぎない決意、並外れた成功への夢も必要でした。しかし、当時の時代と自身の性別による強力な社会的決定論から逃れるためには、何よりもマリアにとって最も大切なものを手放す必要がありました。それは、婚外子として生まれた息子マリオです。もし彼女がマリオを正式に認知していたら、キャリアを犠牲にしなければならなかったでしょう」
そのような時代だったのである。
出産の前後を休んで育児に専念し、その後復職などということはありえない時代だったのだろう。
マリアは、乳母を母と思っている息子マリオに会いに行くも、抱っこして泣かれ、母とは思われていない。切なくて両親に訴える。
「隠してでもいいから引き取りたい」と。しかし両親はかたくなに拒否する。
孫なのに可愛くないのだろうか。会いたいとは思わないのだろうか。
なぜ、子どものことを隠すのだろう。
【初めて抱っこした時は感動した。だけど私は罪の産物】
自身も息子のことで悩みながら、教育に革命を起こすために日々懸命に生きているマリアの元へある女性がやってくる。
後にマリアの理解者として彼女を支援するリリだ。
彼女は高級娼婦である。娼婦と言っても皆さんが想像するものとは違う。
1900年代のフランスにおける高級娼婦は、単なる娼婦ではなく、富裕層や上流社会の男性を相手にする洗練された女性たちだった。彼女たちは文化、芸術、政治にまで影響を及ぼし、独自の社会階層を築いていたのだ。
そのリリの娘は知的障がい児ティナ。
リリはティナを車から降ろし、自宅に入れる際、ティナに頭の上からスカーフをかぶせ、彼女を隠す。
障がい児であるティナの存在が社交界に知られてはいけないのだ。
そのため、リリはパリからローマへやってきて、マリアの研究所を訪ねたのである。
決して娘のためではない、孤児院代わりにここに預けようとしていたのだ。
最初、リリはティナを「姪」と偽るが、マリアの子どもたちに対する強い熱量に突き動かされていく。
ティナが自宅でピアノで遊んでいると、やってきたリリは一緒に楽しく連弾の真似事をする。幸せそうな親子だ。
ところがいきなり立ち上がり叫ぶ「なんてことをするの!疫病神」
ティナは失禁してリリの服を汚してしまったのである。
我が子を迷惑に思っていても、隠しきれない母性で一緒にピアノを弾くが、口から飛び出すのは我が子を否定する言葉。
そんな自分を「ティナの障がいが分かったのは1歳の時。親の意向で離婚。女は健康な子を産むものなの。だから私は罪の産物」とマリアに明かす。
なんて、なんて切ないのだろう。
愛したいのに愛せない。障がい児だから隠さないといけない。ありのままを愛せないなんて母としてそれはたしかに罪なことである。
しかしティナは「罪」ではない。

【ティナの成長、そしてリリの変化】
視察団体への成果発表会の日がやってくる。ティナはそこで、最初こそ話せなかったが、自分の名前をいう事ができる。そして言われた通りの言葉を黒板に書くことも出来た。
不安そうに見ていたリリの表情が少しづつ明るくなっていった。

しかし、ティナが「通学」ではなく「寄宿舎」に入る日が来た。空きが出たのだ。
「サインをして」というマリアに、リリは複雑そうだった。
リリの中に潜んでいた母性が見え始めた瞬間だった。
マリアのモンテッソーリ教育はリリを確実に変えていった。
さて、物語はこの先、マリアに試練を与える。
その時、助けるのはリリだ。二人に友情が芽生えているのは見ていて本当に嬉しかった。
いざというとき頼りになるのは同性の友人であるというのは今も昔も変わらない。
最後にマリアが声高らかに宣言した言葉を記しておく。
「新しい教育学は母親の崇高な能力に注目すべきです。女性を象徴する愛情に満ちた教育です。最も大事なのは子どもを愛することです」
リリは共感したが、この言葉を宣言した時のマリアの気持ちを推し量ると私は切なくなる。
最も大事なのは子どもを愛すること、と言いながら、マリアはそれを行動に移せていない。
一緒に暮らしていないからと言って、愛していないわけではない。
しかし、マリアは息子と離れても、教育に革命を起こすことを選んだのだ。
これには賛否があるだろう。個人的な感想は控える。
ただ一つ言えるのは、いつの時代もどこの国でも、犠牲を払うのは多くの場合、女性であるということだ。
文・栗秋美穂