「さっちゃん最後のメッセージ~地下鉄サリン事件被害者家族の25年」目撃者として生きている限り、伝えていく。

※この作品は、アマゾンプライムビデオで視聴することができます。
1995年3月20日、日本犯罪史上、筆者が生きてきた中で最も残虐な事件が起きた。
オウム真理教の信者5人が東京・霞ケ関駅に向かう営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線、千代田線、丸ノ内線の3路線の車両内で新聞紙で包んだビニール袋を傘で突つき刺さし、猛毒の神経ガス・サリンを散布。
乗客と駅員14人が死亡、6000人以上が負傷した。
別の拉致事件に対する警察の捜査を懸念した教団が、首都で無差別テロを起こして捜査を混乱させるのが目的だった。

2025年3月22日 毎日新聞 15歳のニュースより

(C)TBS

春休み前になると、学校もほぼ短縮授業。ということで帰宅後はホームスクールをする。教材はドキュメンタリー(あるいは外で季節の旬のものを採取or魚採り)
今回の導入はこのように話した。
「今日見るドキュメンタリーの事件は地下鉄サリン事件の話。ママは当時、大学生で春休み。外で消防車や乗用車が大喧嘩している声で起きたの。いつまで経っても終わらないから、窓から青梅街道を見たら、ただの事故のようではなかった。ママはマスコミより早く現場に着いてずっと見ていたの。当事者ではない。だけど、目撃者として、ママが生きているうちは事件を風化させないためにも、なんらかの形で伝えていきます」
息子はどこで知ったのか、事件の概要を私より詳しく知っていた。

それでは紹介しよう「さっちゃん最後のメッセージ~地下鉄サリン事件被害者家族の25年~」
その日、会社の研修で、いつもの場所とは違う場所に向かっていた一人の女性がいた。
浅川幸子さん、当時31歳の会社員。
筆者は「いつもと同じ行動パターンだったらこの事件には遭っていなかったかだろう…」と思うと同時に「運命のいたずら」という言葉が頭に浮かんだ。「たられば」の話をしても無意味だ。しかし、もし、運命のいたずらという現象がこの世に存在するのだとしたら、それは「いたずら」ではない。「運命の犯罪」だと思う。
この記事では「地下鉄サリン事件」の詳細を説明しない。残された被害者家族が「失ったもの」ではなく「得たもの」に焦点を当てて考察する。

失明、言語障害、全身麻痺、知能は3~5歳。


これが幸子さんが負った事件の後遺症である。
目の焦点が合わず、話すことも出来ず、わずかに体を動かすだけの妹に寄り添ったのは、4歳年上の兄、一雄さん。ずっと25年、寄り添い続けた。
この家族の全員が、最初から最後まで一貫して、寄り添い続けたことが分かるように制作されていることが私は嬉しかった。
考察ライターとしてというより、個人として嬉しかった。

あの頃、マスコミは被害者家族や現場にいた人を後日取材で探し出していた。「苦しみや痛み」を聞き出していた。しかし、この作品は浅川さん一家の苦しみや痛みを無理やり引き出すことをせず、寄り添って撮影し、ご家族と対話する形で展開していく。

痛みや苦しみ、そのようなものは、変わり果てた幸子さんの姿を映像で見れば一目でわかる。
苦しくないわけがないだろう!怒らないわけがないだろう!
しかし、制作者たちは、そこよりもこの家族の「優しさ」に重点を置いていた。報道関係者であるはずなのに、大衆が知りたがる「死ぬほどの苦しみ」を掘り出すことをしない。
大衆というのは、加害者に怒りを覚える一方で被害者の苦しみを知りたがるものなのに。

【こんなにも優しい家族がいるだろうか】

浅川幸子さん、通称さっちゃんの兄・一雄さんはオウム真理教への怒りを露わにしない。
さっちゃんの今を見て、最善を尽くす。
しかし、リハビリ8年半、介護の決断を迫られる。
専門の施設に入るか、自宅で家族が介護するか。
医師は、後者の選択は「覚悟が必要だし、夫婦仲も悪くなる。家族崩壊の可能性もある」といった。
そして一家は決意する。自宅で一緒に暮らすと。
いや、一家が決意したのではない。一雄さんの妻、義妹のいづみさんがさっちゃんと暮らすことを望んだのである。
そうして、事件から9年経って、初めてさっちゃんは自宅に帰った。

さっちゃんと寝たいの。寝てあげたいとかじゃない

誰が言った言葉か想像が付くだろうか。
さっちゃんが自宅に帰ってきた日、介護ベッドの下に布団を敷いて寝る準備をした小学生の姪と甥である。
すごい、と思った。すごい、しか思いつかない。
大人は皆、弱者に対して「~してあげたい」と思いがちだ。どこか上から目線なのである。
しかし小学生の姪と甥にそのような感情はない。
自分がさっちゃんと一緒に寝たいから、一緒の部屋にいたいから、自分の好きなようにするのである。
この甥と姪は、さっちゃんが逝去するまで、実家を離れてそれぞれ家庭を持ってもさっちゃんを常に思いやり続けるのだった。

さっちゃんの父は死に、母も認知症に。介護は二人分

義妹いづみさんはヘルパー2級の資格を取り、さっちゃんの為に尽くしていた。しかしこの人からは「尽くす」という感じが浮かんでこない。
自分が好きでやっているように見えた。
この母親の姿を見て育ったからこそ、前述の兄妹が優しく成長したのだ。

ある日、就職で実家を離れていた甥が実家に戻ってくる。
そして制作のディレクターが歩きながら彼に尋ねる。
「家族ってなんですか」青年に成長した甥は「大切…ですね」
大切以外の言葉はない、そのような答え方だった。
その時に、このドキュメンタリーは被害者の苦しみではなく、被害者一家がどのような家族であるかをテーマにしていると分かった。

さっちゃん、体をこわばらせる

それは2018年のことだった。7名の死刑執行が行われた。
その事実を知らせた時、さっちゃんは体をこわばらせたという。この体の緊張が何を表していたか、残念ながら私には想像もつかない。
広瀬死刑囚の裁判では法廷にも出廷し、この問題を風化させないために実名報道でマスコミ取材も受けていた幸子さんたち。
しかし、相手は死んでも幸子さんの苦しみに代わりはない。
それどころか進行していった。
体重が20kg台になり、弱って行く幸子さん。
2020年3月、さっちゃん56歳で逝去。サリン中毒により低酸素脳症が死因であった。

幸子さんが亡くなる27年前から変わらない、兄一雄さんの考える「家族」

1993年、事件が起こる2年前のホームビデオで一雄さんが言っている。
「こうして、家族みんながいて、それだけで幸せ」と。
そして幸子さんが亡くなった時も「幸子を家族で支えた25年、幸子と家族みんなが一緒にいたことは良かった」
そしてどんなに帰りが遅くなってもさっちゃんの部屋に寄り、話す時間を持っていた優しい一雄さんが涙する。
「周囲の方から『頑張って』と言われるのが本当につらかった。
頑張っている妹に『頑張って』なんて言えなかった。
でもさっちゃんが居なくなった時、初めて言えた。『さっちゃん、良く頑張ったね』って」

さっちゃんの残したメッセージ、それはこの家族にとって数えきれないだろう。「子どもたちもさっちゃんから力をもらったと思う」と一雄さんは言っていたし、義妹さんはさっちゃんのために柔らかい食事を作って毎日向き合ってきた。
さっちゃんは喋れなかった。だからメッセージは残していない。
しかし、さっちゃんの存在そのものが、この家族の絆を深めていったと思う。失ったものは大きい、あまりにも大きい。
しかし、さっちゃんが生きる希望を持ち続けたから、家族も皆強くなり、これからも強く生きて行かれるのだと思う。

【愛するがゆえに甘えられないと思ってしまう日本人という国民性】

息子の「振り返り」には正直な感想がつづられていた。
「僕は、ママがさっちゃんのような姿になったら、怖いと思ってしまうだろう。ママを支えられるだろうか。きっとママは怒って僕を遠ざけるだろう。ママが怒る時は、山でも下界でも僕がママを助けに行こうとする時だ。ママは僕に甘えない」

夜、こっそりそれを読んだ私は「親というものは、家族というものは、愛するが故に甘えられない生き物なんだ」と涙した。
返事はこう書いた。
「正直な気持ちだね。でもママは君がどんな姿になっても怖がることをしない。なぜならそれまでの『思い出』があるから」

さっちゃんは、甥や姪の写真を撮りためてアルバムに残していた。さっちゃんの優しさが残っていた。

次回は、ALS問題についての考察記事を書く(掲載日未定ですが、頑張って書きます)

文・栗秋美穂